月: 2024年6月

2024/5/15,5/16 朗読劇『ネコたん!~猫町怪異奇譚~』

 東池袋のあうるすぽっとで連日開かれていた朗読劇のうち、二日間で土屋さんが出演するということで参加。名前を聴いたことはあるものの初めてエレベーターを使うと何階に劇場があるのかよくわからず、誤った階に連行されしばらく迷う。エレベーター脇にある階段で2階に上がるのが正解らしかった。

 萩原朔太郎の短編小説『猫町』をもとに作られた朗読劇。猫の住む猫町を舞台に、繰り広げられる殺しとそれを追う探偵の物語。登場するキャラクターはほぼ全て猫。

 弁士の方が地の文を担当し、演者はキャラクターの部分だけ演じる形式。一日目と二日目では主演を含め演者が大きく異なっていたのだが、その結果、掛け合いのテンポ感がまるで異なり、客席の反応や雰囲気も異なっていた。演者が違うと掛け合いが変わるのは生のお芝居という感じがするし、演者が違うと来る客層も異なるので反応が異なってくるというのもまた面白かった。

 主演が15日は吉武千颯さん、16日は伊達さゆりさん。主演の人がとにかく出番の多い朗読劇だった。二人の立ち方や目線の配り方など、要するに演技の違いがありありと表れていてよい体験だった。どちらも探偵服姿に猫耳を装備しており、そんな姿で出番が超多く、最後にはなんとArte Refact描き下ろしのメインテーマ(普通にいい曲)を歌うもんだから主演の人目当てだともうとても幸せなのだろうな。

 ことあるごとに小ボケをふんだんに挟み込みながら探偵による捜査が進み、最終的になんだかんだで殺しの実行犯を追い詰め、そのさなかいかにも死にそうなキャラは主人公をかばって良い感じに死んでいき、それを受けて主人公が奮起しなんやかんやで悪党を打ち倒し、ちょいビターなHAPPYENDでおわる。しかし黒幕はまだ残っているぞ、という感じで次への引き。朗読劇で引き?と思うかもしれないし自分でもめっちゃ続きやりたそうだな…と思ってたら千秋楽で続編が発表されていた。まあそうだわな。

 正直、この朗読劇のおちゃらけかたが肌に合わなかった。登場キャラクターの名前が猫の品種ほぼそのままだったの何? 真剣につけてくれよ!でもこの朗読劇は全体的にギャグめいてるから名前の時点でこの朗読劇はおちゃらけてるんですよと示してくれたのかもしれない。萩原朔太郎・猫町より、とかアピールしてるけどこれHUMANLOST人間失格(全人類、失格)のほうがよっぽど仁義があった気がする。
 この作品の猫という存在の扱い方をみると、キャッツ(ミュージカル)はちゃんと猫の在り方に寄り添っていたな…と思う。キャッツに出てくる猫たちは各々が好きなことをやっていて、その積み重ねで物語が進んでいく感じが良かったんだよね。映画は忘れてください。ネコたんの猫ってやってること普通に人社会の再生産じゃん?(というか人社会そのままじゃん?)猫らしさって飼い猫と野良猫の対立軸くらいしかなかった。毛皮を売るとかもなんだかな~。こういうなんだかな~が積み重なった感じ。

 楽しいところもあったけれど、やっぱり惜しいな~って思ってしまう。あたいこれ許せへん!!とまではいってないので、続編でも召集の笛が鳴らされたら見に行くつもりだけど。続きでこの朗読劇の乗りこなし方を覚えたい。

 土屋さんは15日は作中でダークヒーロー(?)的な存在のリンちゃんを。16日は黒幕的存在のリアンちゃん(サイベリアンより)を演じられており、両日ともビジュアルが良かった。とりわけ16日のときの真っ赤なワンピースドレスがとても似合っていた。美! リアン氏は序盤はあらあら系のセレブとして登場し、クライマックスで黒幕としての本性をあらわすキャラクター。最初から赤いドレスは着用されていたのだが、本編ではドレスの上に白い上着を着用しており、そちらの印象が強くなっていた。そんな感じだったので、本編の幕をおろしたあとのCパートな場面で真っ赤なドレスで登場されたのはとても格好よく、美しくて。もこもこのファーを携えていたのも成金セレブな悪役として満点だった。
 演技でいうとリンちゃんの台詞では「あいかわらずやさしいお・と・こ」という言葉が良かった。カッコよく戦う声を聴くことも死にゆく声を聴くこともあまりないので(ラグナクリムゾンではさっくり死んだし)、貴重な機会だったかも。
 リアンちゃんのセレブ演技はもうすきすぎ。おほほほ!すきすぎ。ラストに本性を表したあとの成金悪役セレブな演技も良すぎだった。高笑いもよかったし悪いセレブっぽく猫の品種を叫んでいくのも狂ってる感じが溢れ出ててたまらなくよかった。悪の成金セレブっぽく辞書を朗読するコーナーを設けてほしい。
 でもま~~~総じてこの朗読劇では土屋さんの出番は少なめだった。これまでが恵まれ過ぎたのかもしれないが。

 この朗読劇で一連の朗読劇ラッシュがおわった。自分は朗読劇に何を求めてるんだろう…と最近は考えている。

2024/5/5 朗読劇『若きウェルテルの悩み』

 1週間ぶりのTOKYO FMホールで1週間ぶりの朗読劇。この日も土屋さん目当てだったのだけど、この1週間で朗読劇北京朗読劇と3つも異なるイベントがあり、だいぶ充実した黄金週間だった。ありがたい。
 この朗読劇では村瀬歩さんが主演を務められており、カッコいい低めのお声の演技をされていたのでラグナクリムゾンだ!とキャッキャしたり、星見プロに所属していた時期もあったので石谷さんをはじめて拝見できてキャッキャしたりしていた。
 名作を題材とした朗読劇だったのだけれど、恥ずかしながら原作を存じ上げてなかった。さくしゃのなまえだけしってた。パンフレットを読むと悲恋モノと書いてあり、悲恋モノといえば、個人的には『太陽の塔』(森見登美彦)が人生の一冊くらいの存在だったのだけれど、何となく感じるところがあり終演後に「太陽の塔 ウェルテルの悩み」でパブサかけたらいくつかヒットしたので、この感触はそこまで間違ってないんだと思う。


 若き青年ウェルテルが素敵な女性シャルロッテ(但し婚約者持ち)へのままならぬ恋心に翻弄され、自ら命を絶つまでのお話。
こうかくと重苦しい話に聞こえるし、実際、はかなくも悲しい恋物語なのだけど……。




 結論から正直に言ってしまうと、ウェルテルの挙動が本気で演者を好きになって極まってしまったブレーキのきかないオタクの奇行のように感じてしまい、これオタクのお話なんじゃないか?と脳が判断したのか、朗読劇を聞いていてめちゃくちゃ面白くなってしまった。理性が効かない低所得のオタクとしては身につまされる思いもあり、そういう意味でも見応えのある朗読劇だった。ひたすら口角が吊り上がっていたのでマスクがあってよかった。

 序盤でシャルロッテ(以下、ロッテ)がウェルテルにかけた「明日もいらっしゃるのでしょう?」という言葉がもうすごいダメだった。オタクにそんなこと言ったら毎日通うに決まってるでしょ!!!!!実際にウェルテルは毎日通った(いわんこっちゃない)

 物語が中盤に差し掛かるとウェルテルは遠くの土地に移住する。ウェルテルはロッテから離れ、労働に勤しみ、真っ当な道を進むように見えたのだが……。このときのウェルテルはオタクとしては終わりのはじまりだけれど、彼の人生にとっては間違いなく良い方向に進むものだったので、頑張れ…! もう戻ってくるな…! と手に汗握りながら応援してしまった。オタクなんてやめれるならやめたほうがいい。とはいえ結末は冒頭で判明しているので、いつ破綻が訪れるのかそわそわしていた。結局現場というかロッテのもとに戻ってきてしまったときの”終わり”感は強烈なものがあり味わい深かった。
 作中、ウェルテルはそんなことしちゃだめだよ!出禁になるって!!(オタク目線のきもち)というムーブを結構、いやかなりする。そんな行いを経ても、ロッテはウェルテルのことを大事な友人として想っており、それは素敵で貴重なことなのでは、と正直感じてしまっていた。別に恋仲にならなくても、末永く交流して人生送れたら楽しいし幸せじゃん、など思っていたのだけれど、これは現代の価値観で見てしまっているなとも感じる。
 終盤、あれだけ煩悩に振り回されたムーブを重ねたウェルテルは最後までロッテに慕われていたことが判明する。ロッテは夫にも誠実であり当然きちんと愛していて、その上でウェルテルも友人として慕っていた。だからこそ、明らかに挙動がおかしくなりつつあるウェルテルとの距離が近くなりすぎることを恐れて、ひとまず、落ち着いて、距離感を再構築するために、いまは(すこしだけ)離れることが必要だと判断し、ウェルテルにそのことを告げた。その結果、ウェルテルはメンブレして銃で自死した。

 ウェルテルが死に至ったとき、彼の手にはロッテから贈られたピンクのリボンが握られていたという語りでオタク君さあ…って思ってしまった。ちなみに、ロッテの身につけていたリボンをウェルテルがほしいとお願いした結果ロッテからウェルテルに贈られたものである。
 ウェルテルが自害に使用した銃は、防護用の銃がほしいから君の家に飾ってあった銃貸してよ!とロッテの夫にお願いし、ロッテの夫は過去のトラウマから銃を一切持てないので代わりにロッテが直接その手で持ち運んだ銃である。要するにウェルテルはロッテが運んだ銃で死のうとして、成し遂げたのであった。オタク君さあ…。
 
 そんな感じで、最後までジェットコースターのように楽しく見てしまった。こんな受け取り方を、自分の感性として受け入れていいのだろうか。なんか…悲恋モノを面白く味わっちゃいます!wみたいな感じで超嫌なんだけど、でも本能的にそう感じてしまっているのも確かだ。どうしてこうなってしまった?責任者はどこか。
 とはいえ、物語の最後でウェルテルの死とその有り様を聞かされてパニックになっているロッテはいたたまれなかった(その演技も良かった)。なぜあんなにいい人がつらい思いをしなければならないんだろう。

 この日の土屋さんは白いドレス姿。物語でも登場したピンクのリボンを身に着けられていた。そして、お髪を結ってまとめられており、上品で美そのもの。お首があまりにも綺麗。好き。ウェルテルが気を狂わせてしまうのも納得のお姿だった。まあ、立ち位置が座席の対角線上で、朗読中は横顔しか見れなかったのだけど(横顔も美しかったので良かった)、それでも見惚れてしまう美しさだった。
 この日の土屋さんの演技は気取らない上品さと包み込むような優しさが満ちあふれていて素晴らしかった。脳に優しい声。
 とりわけ、ロッテが「わたくしドイツワルツが大好きなんです!」と言葉をかけるシーンは珠玉の演技だった。朗読を聴いていて、可愛すぎてわ~かわいい!!!って思った瞬間に作中でもウェルテルがかわいい!と反応していたのがとても素敵な体験で。あの可愛さは作品で要求される必然的な可愛さなのだけど、その可愛さを確かな説得力をもって提供できるのだなあ……。プロの仕事を感じる。
 終盤、ウェルテルのムーブに対して困惑していたときのロッテのお声も、彼女の誠実さと、複雑な胸中が表れていた。なんとか絞り出した「どうして私なんかを…?」という言葉が耳に残っている。そんな姿も魅力的なんですねえ!

 そうしてこうして朗読劇を見て、好きになってもよい(むしろ好きになるための)存在であるアイドルという概念は人類を救っているのだと強く感じた。アイドル文化が花開いている現代のオタクは幸せかもしれない。アイドルをしている方々に感謝したい。けれど、現代でも本当に本気で演者を好きで恋してしまった人はウェルテルと同じように苦しいのかも。ウェルテルみたいなヤバいムーブしたら出禁になるし、行動に歯止めがかかってストッパーになるのではないでしょうか。なんの話?

2024/4/28 キミに贈る朗読会『春とみどり』

4/28@TOKYO FMホール。漫画原作の朗読劇。この日の演者は前田のかおりん、山根のやや氏、土屋李央さんの三人で、昼夜二公演だった。

 この朗読劇の開催を知ってから原作『春とみどり』を読んだのだけれど、丁寧な手ざわりが好印象の素敵なお話で大好きになってしまっていたので、この原作を朗読劇で表現するのか楽しみにしていた。そのため、初見の1部では原作からどうやって朗読劇に落とし込んだのかとかそういった朗読劇の構成部分の味わいを強く感じることとなり、作品の世界に浸れたのは2部になってようやく、という感じ。
 
 原作のあらすじ↓
 人づきあいが苦手で、どこにいても居場所がないと感じているみどり(31)。ある日、母親からの電話で中学時代好きだった親友・つぐみの死を知ったみどりは、葬儀へと出向く。中学時代、自分に居場所を与えてくれたつぐみの死を受け入れられられず、ひとりうつむいていると、声を掛けられる。見上げると、そこには中学時代と姿が変わらないつぐみがおり、思わず駆け寄るみどりだったが、少女はつぐみの娘の春子で……居場所がないみどりと居場所をなくした春子、そんなふたりが織り成すセンシティブ同居譚。(引用元:https://comic-meteor.jp/haru/)

 配役も事前に発表されており、前田さんがみどり、山根さんがつぐみ、土屋さんが春子さん。お三方がどんな演技をされるのかあれやこれやと思いを馳せていた。だから当日、いざ開演を迎えてから、演者の方々がそれぞれ第一声を発するその瞬間までとても緊張していたし、一番固唾をのんで見守っていた時間だったかもしれない。

 朗読劇はみどりの語りからスタートし、回想のなかのつぐみ、葬式での春子さんと三者が登場していく。つぐみさんのお声が明るいカラっとしたものだったので、やはり春子さんも明るい系統かな?親子やし?などとそちらに重心を傾けて身構えていたところ、実際の春子さんの演技では土屋さんの地声に近い声をしていた。なるほどね!了解!!自分の中の想定と相手の演技プランに差異が生じても生じなくても楽しいので、事前に想定を立てた時点であとはどうなっても良かった。
 
 朗読が始まってすぐ目についたのは、脚本がペラ紙に印刷されていたこと。譜面台に台本が束になって置かれていて、演者はそれを見て朗読を行う。そして、朗読が進むごとに一枚一枚、ペラ紙をステージ上に投げ捨てていくのだった。そんな光景をみたのはこの日がはじめてだったし、積もってていく紙たちの様子をみて、時が逆向きに進むことはないことを身体で味わった気がした。

 冒頭、母からみどりへ電話がかかってくるシーンを全てみどりのモノローグで処理し、つぐみの親族も基本モノローグに変換していたところで、この三人以外は登場させない方針なことを承知つかまるのだった。
 基本的には原作からの引き算で朗読劇のシナリオは構成されていたのだけれど、つぐみと春子の家の片付けをするシーンでは、つぐみからの留守電がまだ残っている場面が追加されている。原作から追加された場面で、突然の別れの生々しさと臨場感がたっぷりで、朗読劇ならではの足し算に天晴だった。

 朗読劇全体を通して強く印象に残ったのはクライマックス、みどりがつぐみの遺した手紙を読むシーン。つぐみという人間の核心が明かされる場面であり、朗読劇でここどうなるのかな!とわくわくしていた部分でもある。朗読劇ではつぐみの独白という形で表現され、山根さんによるおとなになったつぐみのゆっくりと語るような演技がすごい…すごいよかった。それだけでも大満足だったのだけれど、そこから畳み掛けるかのように、手紙を全て読み終えた山根さんは役目は果たしたと言わんばかりに二人の演者を残して舞台を去るのだった。その演出に度肝を抜かれてしまった。
 この演出について、手紙を読み終えたみどりはつぐみへの思いに一つケリをつけられたのかな(思い出のつぐみが顔を出すことはなくなったのかな?)と自分は受け取ったのだけど、これは人によって受け取り方が違いそうで気になるところ。

 二人の関係を描くうえで、三人目の存在が大事というのはよく言われていることで(要出典)。原作でも春子さんのおばさまや、友人、みどりの職場の人がその役割を担っている。職場のあらあらうふふおねーさんがみどりさんの変化を映す鏡になっていたのが印象的だ。
 対して、この朗読劇は一生二人で展開される。舞台上に3人いるけれど3人が揃うことはない。一人死んでるし…。原作から3人目の存在がオミットされたぶん、原作にないモノローグが多分に加えられている。なんだか百合漫画みたいだというのはおいておいて、必然的に内省的な印象が強くなる。原作で描かれていた二人と外部の人々とがつながるシーンは、読者が一息つけるポイントにもなっていたことを改めて実感する。
 もともと別れからはじまる物語とはいえ、ほがらかさもあった原作に比べると、前述のシナリオの構成面や脚本投げ捨ての演出に加えて、かおりたむの切実なみどりの演技の影響もあってか、切なさや寂しさが強く感じられた。そのぶんラストシーンの明るさやあたたかさは原作以上に強く感じられたのはとてもいいところ。
 構成演出演技、全てにおいてブレがなくこの朗読劇のこの座組で表現したい春とみどりはこれだったのだ、と素直に受け取ることができた。個人的には学校のシーンの春子さんとかも見たかったけどね。

 春子さんの演技について。みどりの「お友達として…」って言葉に春子が噴き出すくだりが暖かくて笑顔になっちゃうのだけれど、そこから春子のお声のトーンが明るくなった気がして、それも二人の距離感の接近を感じてしみじみと好きなところ。あたたかい。
 つぐみがのこしたカーテンの一幕で、涙腺が決壊してしまう春子の演技がとても良かった。好き。つぐみは寂しさを抱えていて、その結果居場所を探して家を飛び出した。春子さんも家につぐみさんがいないのが当たり前だった。でも春子さんはつぐみのような飢えはなく、真っ直ぐに育っている。そこにつぐみさんは忙しくても懸命に子育ても頑張られていたのだなあ…と感じられて、カーテンのシーンが大好き。

 土屋さんの衣装が白と黒を基調としたもこもこジッパージャケットで、なんだかロクサス(キングダムハーツ)を思い出した。さすがに私服じゃないらしかった。どういう意図が込められていたのだろう。  

 終演後のちょっとしたアフタートークでこの朗読劇にあわせるならこの香水だよね…×3をした結果三人とも示し合わせたかのように同じ香水を選んでた話がとても素敵に感じた。自分ならどんな香水を選ぶだろうか。香水使ったことないけれど。